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私のこれまでの経緯、なぜ治療家の道へ進んだのか、
その想いを少しだけ語らせて頂きたいと思います。

『ラグビーにどっぷりの学生時代と整骨院との出会い』
私は、高校生と大学生の学生時代7年間ラグビー部に所属し、毎日朝から晩までどっぷりとラグビー一色に染まっていました。
高校は東京の東海大菅生高校、当時は強豪校で全校大会(花園)へのキップをあと少しという所で惜しくも届かず、悔しい思いをしました。
競技はラグビーという特性上ケガは当たり前、私自身いろんな箇所をケガしました。
当時、大きなケガをすると監督から栃木県にある整骨院へ行けと言われ、学校を早退して東京から栃木まで電車を乗り継いで通院したものです。
私は整骨院と初めての出会いは栃木の先生でした。今思えば、紛れもないゴッドハンドで、整骨院の治療レベルはこれが基準だと勘違いをしていました(笑)
この時はまだ自分が治療家になるとは夢にも思っていませんでした(笑)
しかし私の治療家人生はここから始まりました

おおにわ整骨院の理念

『映像の世界と治療の世界迷ったあげく選んだ先は、、、』
高校ラグビー生活は、日々の練習はつらく、逃げ出したい事もしばしばでしたが、三年生の時にはキャプテンを務めさせて頂いたり、東京都二位まで昇り詰めるなど
充実した選手生活を送る事が出来ました。
三年生の時最後の大会を終え、そんな高校ラグビー部の軌跡をまとめたビデオを自主製作し、三年生最後の日に父母の方々も合わせて全員で鑑賞会をしました。
ビデオも終盤、ふと後ろを振り返ると父母の方々やラグビー部の皆は号泣していました。
私は衝撃を受けました。作り手の私は何度も見ていたので気が付きませんでしたが、映像にはこれだけ人の心を動かす事が出来る力があるのだと感動していました。

その後、東海大学へ進学しラグビー部へ所属、また懲りずにラグビー漬けの生活が始まりました。
今度の期間は4年間に延長され、寮生活のおまけつきです(笑)
大学生活遊んだ記憶はなく、またしても練習に明け暮れる日々を送っていました。
大学のラグビー生活は幸運なことに、のちに日本代表監督を務める事になるエディージョーンズ氏が一年生の時にコーチとして就任してくれました。
そんなエディーに拾ってもらい、運よく一年生からレギュラーの座を頂き、4年間7番(フランカー)を守り抜き、4年生の時は副キャプテンを務めさせて頂きました。
大学ラグビー部生活も充実そのものでした。

7年間つらく、そして時には楽しく恵まれた処遇の中で競技生活を送らせていただきました。
そして幸運なことに卒業後、実業団で「ラグビーを続けないか」とお誘いの声も頂いたのですが、私は高校三年生最後の父母会で皆が号泣し、衝撃を受けた映像の力、
その魅力に憑りつかれいた私は、7年間続けたラグビーをすっぱり辞め、映像の世界に飛び込もうと決意していました。

そして迎えたリーグ最終戦の三日前、ここで事件が起こります。

練習中に大けがをしてしまったのです。
右足首の捻挫です。
直ぐに病院で検査を受けました、幸い骨には異常は無く骨折は免れましたが、足は象のように腫れあがり、足を地に着けると激痛でとてもまともには歩けません。
医師に必死の思いで「三日後の試合にどうしても出たい」と申し出たら医師は鼻で笑って「無理です」とだけ言うと私の前から去ってしまいました。
絶望の淵に叩き落され、目の前は真っ暗、頭に思いつくだけのありったけの汚い単語を病院の出口のドアに向かってぶちまけていました。

帰り道途方に暮れながら、なんとか冷静さを取り戻すと、ふと頭にあの栃木の先生の事を思い出しました。
直ぐに監督に電話をして明日、朝一番で栃木に行く事の許可をもらい、4年ぶりに栃木の先生の所へ一縷の望みにかけて行きました。
4年ぶり対面した先生は全然変わっていませんでした。
追い込まれ、悲壮感に満ちた顔で「先生、あさっての試合に出たいんですけど」と無理だと言われる事は覚悟のうえで無理を承知に聞いてみました。
すると予想もしていなかったビックリする答えが返っていきました!

「こんなのすぐ治るよ、帰りは駅まで走って帰りな」私は自分の耳を疑い、半信半疑のまま施術を受けました。
施術が終わり、先生は「ほら、立ってごらん」といい、私は促されるままベットから恐る恐る立ち上がると、、、
「あれ?」まるで痛くありません。
あれだけ象のように腫れあがっていた右の足首はいつの間にか元通りに治ってます。
さっきまで死んだような魚の目をしていた私は嬉しくって、嬉しくって、何度も先生にお礼を言うと、本当に駅まで走って帰りました。

この時受けた感動は今も忘れていません。治療家ってカッコ良くていい仕事だなと心から思い、この出来事が後の私の人生を動かす事になりました。
リーグ最終戦、私にとっての引退試合、あれだけの怪我をしたのが嘘のようにフル出場する事ができ、見事勝利!7年間のラグビー生活にしっかりお別れする事が出来ました。

『天職から転職』
映像が与える力を信じて、テレビの世界に飛び込んだ22歳の私。
ラグビーしかしてこなかった私はどうせなら、スポーツに関わりたいと思っていました。
すると、務めた制作会社からTBSスポーツ中継制作部に出向するように辞令が出ました。
渡りに船、とんとん拍子に事が進みます。嘘のような本当の話。うまく行く時はうまく行くんですね(笑)
どうせならラグビーをと高望みしましたが、そこまでうまくは行きません(笑)
結果、私は陸上班に配属されました。しかし、この陸上班の仲間は最高の人たちで、のちに私の人生を変える事になります。
陸上班といっても陸上の中継ばかりではありません、空いている時は他のスポーツの中継や制作のお手伝いをします。
野球やサッカー、バスケにテニス、バレーボールやゴルフ等々、本当に毎日が楽しくて時間があっという間に過ぎていく、まさに浦島太郎状態でした。
テレビの世界はきつく、厳しい、大変な事ばかりですぐに辞めていく人が多いと散々聞かされていましたが、私は周りの人に恵まれたおかげで、
毎日が刺激的で楽しく、同じような日は一日もない。遊んでいるよりも楽しいし、何よりきつい練習に比べたら天国と地獄くらいの差がありました。
これでお金までもらえるなんてラッキーくらいに思ってましたし、天職だと思っていました。
周りの友達は胃に穴が開きそうになりながら歯を食いしばって頑張っているし、鬱になって仕事を辞めたやつもいる。
私ばっかり、こんなに楽しくていいのだろうか?「若い時の苦労は買ってもせよ」とか言うし、、、
贅沢な話ですが、当時の私は真剣に悩んだりもしました。
そんな時、上司の給料明細を偶然にも見てしまうという事態に遭遇しました!
上司は50代半ば、給料の総支給額は自分の給料に少し色を付けたくらいでした。
20代前半の私は衝撃を受け、突如不安になりました。
この後結婚をして子供を養って行かなくてはならないのにこの給料で足りるわけがないからです。
そして同時に組織の仕組みに気が付きます、親会社がいて子会社がいて孫会社の縦社会なのです。
私は孫会社に所属していて、休日や給料面で子会社、親会社に勝る事がないのは分かっていたが、やりたい事にも制限がかかってしまう事に気がつきました。
勉強して、いい学校に入って、いい会社に入らないとダメだと大人は言っていましたが、こういう事かと初めて理解する事が出来ました。
今は全てが新鮮で、楽しいが勝ってしまうがこの先はどうだろう、、、
毎年、東大や早稲田を卒業してくる優秀な逸材が親会社に入り無条件で抜かれていくだろう、、、
実力は関係なく、親会社というだけで若手の下で働く事になる。その時の私のプライドは大丈夫だろうか、、、
経済的にもやりがい的にも削がれてしまった30代から40代の自分はどんな姿でいるのだろうか、、、

そんなモヤモヤする気持ちの中、突然チャンスが飛び込んできます。
制作会社内の小さな番組ですがディレクターをやってみないかと声がかかったのです。
入社二年目でのディレクターデビューは異例の事だそうで、もちろん即答で引き受けました。
しかしお金がない番組だったので、作家さんや音効さんはつかず、自分で全部やらなくてはなりません、しかしこれが逆にいい勉強になりました。
構成や原稿を自分で考えたり、インタビューしたり、ADを引き連れてカメラマンさんや編集マンに指示を出したり、楽しさはMAX、徹夜だって全然苦になりませんでした。
そんなある時、深夜に編集作業を終え、ボーっとテレビを眺めていると、セブンイレブンの創始者のドキュメンタリー番組がやっていました。
何となく聞いていただけでしたが、創始者が語っていた言葉に雷が落ち、心が揺らぎました。
「物事の転機は好調な時にすること!」確かこんな感じの事だったと思います。
忙しさと楽しさにかまけて、あのモヤモヤから目を背けていましたが、これだ!っと思いました。
転職をするなら今だ、このノリに乗っている今が好機なのではないかと考えました。

この気持ちを陸上班の当時チーフディレクターをしていた局員(親会社)の山上さんに相談しました。
局員の方は私たち制作会社の人間を下にみる傾向があります、しかしこの山上さんは常に対等に接してくれました。私の最も信頼のおける人でした。
スタッフの皆が帰った深夜の別館28号室(BK28)山上さんは一言も口を挟まずに、静かに最後まで私の想いを聞いてくれました。
この時、あの栃木の先生から受けた感動が蘇り、私も困っている人を助けてあげたい。あの先生のようになりたいという気持ちがどんどん湧き上がってきていました。
山上さんは私のポジションが頭打ちである事の事実、そしてこれから向かおうとしている治療家の道は青天井でる素晴らしさを、私にも分かるように分かりやすく説明してくれました。
迷いはきれいに断ち切れ、まるで澄んだ青空の様のようです。こうして私は治療家の道へ進むことになりました。
『最後に』
私は整形外科や西洋医学んに不信感を抱いていました、だってただ諦めるしかなかったからです。
あのまま整形外科医のいう事を聞いていたら、一生後悔する所でした。
そして結果は真逆のものでした。
こんな悲劇が日常のどこかで違った形で今も起こっているのだと思うと悲しく、そして憤りを感じます。
しかし、整形外科の先生が悪いわけではないのです、それは現代の医学の限界だからです。
人間の体の事はまだ99%分かっていないと言われています、という事は1%の範囲の中で判断しているにすぎないのです。
私は人間の持っている自然治癒力に無限の可能性を感じています。
まだ栃木の先生の足元にも及びませんが、私はあの先生のようになりたいと思っています。


『追伸』
その後、柔道整復師の資格を取得し、晴れて栃木の先生と所へ弟子入りを申し込もうと6年ぶりに訪れると信じがたい事実を知る事になりました。
もうそこに治療院はなく、詳しい事は分かりませんが、先生はすでに他界されていました。
先生から受けた恩は私が一流の治療家になって一人でも多くの患者さんを救う事で恩返ししていこうと心に決めました。
私の様に諦めなさいと言われてしまった患者さんに光を差してあげられる様なそんな本物の治療家になりたいと思っています。

院長 大庭 功治